HexWolf Blog

「認知的降伏」という言葉のモヤモヤを整理する

はじめに

最近、認知的降伏について考えることがあります。時短のためのAIへの調査依頼でもAIに丸投げは良くないよと認知的降伏での言論と似た形で指摘されることがあります。
ご尤も、とする一方で我々人類は何らかの技術が生まれる度に思考放棄にも似たことは起こってきたじゃないかとも思います。自分のAIムーヴを棚上げしてるかのような記事ですが若干そうです。でもそれでいいじゃない。たまにこういうの吐き出しても。

自分が思うモヤモヤの一端

昨今の情報ツールに我々人類は浸っているけど本当に自分の思考が大事で丸投げしていないと言えますか?

  • 携帯電話を持ってから他人の電話番号も自分の電話番号すらも忘れる
  • Wikipediaの出現で一次ソースとして情報収集する
  • 誰でも本や電子書籍を出すため書籍が一次ソースとして価値があるのか精査していない
  • テレビや新聞も組織で出しているが独自で発行、放映しているため情報に不正確さがある。後から訂正されてもすぐ終わるため気づかない人が大半
  • かのソクラテスでさえ、文字が生まれたからこそ記憶の衰え、外見の知恵、対話の重視を掲げた

本題

認知的降伏という言葉については新しい情報技術が登場する度に検証され、人類は修正を加えたり降伏した上でその前提を元に考えてきました。
そのためAIもまたいずれ人間に揉まれていく上で醸成されて、程よい形に落ち着くのではと思っています。その影響範囲が非常に広そうかつ未だ研究最前線分野で万能に見えるだけで

ただしAIは今まで出現してきた情報技術ツールの中でも自然言語で扱える以上、ソクラテスが掲げた対話の重視に最も近いという側面もあります。
確かにAIは機械やシステムである一方でより人間らしく振る舞います。対話もします。ハルシネーションも起こします。そうなった時に我々がAIに対してハルシネーションを絶対に起こさないように技術を組み込んでいくのか、人間自体がアップデートしてハルシネーションを100%見抜けるようになればいいのかはいずれ分かることでしょう。

まとめ

結局我々人類は歴史を繰り返すのかもしれないですね。認知的降伏は今に始まった話ではなく、文字が生まれた頃からずっと繰り返されてきた話です。そのため「認知的降伏は良くない」と言われてモヤモヤしても卑屈になる必要はなく、ただそれでも確かな情報であるかをAIにソースを確認する癖が大事なのかなと思います。

多分ルートのCLAUDE.mdに根拠用のページとか貼るように明示してもいいかもですね。